旗本久松氏の墓

更新日:2019年10月13日

 「旗本久松氏の墓」は、久松定佳ひさまつさだよしとその子定弘さだひろの墓石2基が並んで建っています。いずれも江戸時代初期に所沢市域を支配した旗本の地方知行の実相を示す貴重な歴史資料です。
 久松氏が武蔵国入間郡山口に2百石の知行地を与えられたのは、天正19年(1591年)定佳の父忠次ただつぐの時です。以降、久松氏は幕末まで同地を知行しました。
 久松定佳ひさまつさだよしは、慶長5年(1600年)から徳川家康に仕え、大坂夏の陣にも供奉します。その後、3代将軍家光の日光山参詣の折りに大押の役を務め、後に江戸城裏門の切手番頭、留守居番、4代将軍家綱付となります。『寛政重修諸家譜』によると、万治2年(1659年)11月10日に死没し、堀口村の清照寺へ葬られました。
 久松定弘は、定佳の二男であり、書院番などを務めます。『寛政重修諸家譜』によると、貞享4年(1687年)10月2日に死没し、父と同じく清照寺へ葬られました。定弘の墓は、墓石の刻銘から定弘の養子となった定持さだもち(妻は定弘の娘)が建てたことが判ります。
 なお、清照寺は、寺伝では村山党の末裔といわれる星見小太郎が室町期に建てた持仏堂(星見堂)に始まり、後にこの地を知行した久松忠次が、東谷にあった安楽寺を勧請して菩提寺としました。もとは旧山口村堀口にありましたが、山口貯水池(狭山湖)の建設に伴い、昭和5年に現在地へ移転しています。

【指定年月日】平成25年8月1日
【所在地】所沢市上山口439番地の3(清照寺内)

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